京都の精華町で勝手気ままなスローライフ

スローライフ」っていう響きは、実はちょっと気が引けるけど、、、普段の生活を振り返ると、やっぱりこれはスローライフ?

「スローライフ」って厳密に定義されたルールとか基準とかが無いようなので、あくまでも自分なりに解釈して、これって「スローライフ」って思ったらそうなんだろうな。

まぁ、ゆるーい感じでこういう考え方で生活すること自体も「スローライフ」なんでしょうね。

私の場合、それに加えて「勝手気まま」だから、さらにもっと私の思うがままっていう事で、生まれ育った京都の精華町で私の「勝手気ままなスローライフ」っていうものを紹介しようかなと思います。

そもそも、、、なぜ、こんな事を書こうと思ったのかって?

一言では言えないけど、これに至るまでにはこんな私にも色々あって、

悩んだり、苦しかったり、一見満たされているけど何か足りていないとか、私って一体何なんだろう?とかの不安が常にあって、それが何かの拍子にワーッと大きくなって不満が全てを覆い尽くす感じがあったりして。

その原因が、仕事なのか、人間関係なのか、それ以外の何かっていう根本的な事も分からず、モヤモヤしてた時期もあったけど、今の生活をするようになって穏やかな心になってきたように感じていて。

人はみんな人それぞれで、全く同じ境遇とか、全く一緒の悩みとかは無いし、参考になるかどうかは分からないけど、こんな生活もあるんだなぁと、思っていただけたら幸いです。

スローライフって、実際どんな感じの生活?

以前のブログでも書いたけど、私は今どこかに所属する働き方はしていない。つまりサラリーマンを卒業して、コンサル業の個人事業主なんです。そして、単身の世帯主で気ままな生活をしています。

実家が車で5~10分程度のところにあって父が一人で住んでいて、もちろん後期高齢者だけど、自分の事は自分で出来て、畑や山で野菜作りを仕事ライフワークとしている。(因みに、全て自給自足用で、販売していません。)

ザックリこんな感じで、住まいは別々だけど一応食事の事だけは気になるから、毎日夕方には実家に帰って夕飯を作って一緒に食べて、片づけをして実家を後にする。

これのどこに「スローライフ」があるのかっていうことだけど、特に食事、食べることに関して結構スローライフしているんですよね。

私のスローライフは、基本はできるだけ自分で作ったもの

生活すること、生きていくことで大事なことって何といっても「食べる」こと。だから、昔から我が家は「食べる」事をとっても大事に思っていて、その思いの中で私も育てられたって思う。

みなさんもよく耳にしたり、ピンチに陥った時に言ってると思うけど、「食べていけたらいい」って。

だから、生きて行くには食べていくことが必要で、食べることってすべての基本かなって思う。

そのせいか、ことわざとか言い伝えとか、故事成語からしつけに至るまで食べることに関係することって多いのも生きていくことと密接に関係しているからかなって、私は頷けるんですけど、皆さんはどうです?

「何を食べるか」「どう食べるか」はその人の人生だなって思うし、そうなると出来るだけイイものを食べたいなって歳と共にどんどん強く思うようなって来たように思うし、どうやらそうした生活をしている様に思えるな。。。

問題はその、「イイもの」なんですよね。

「イイもの」って言うのもその人によって違うしまた、それが何かによっても違うって思うんですけど、

私の思う「イイもの」って、手間暇をかけて思いの詰まった美味しいものって思ってるんです。まぁ、最終的には自分の味覚にあった美味しいものなんですけどね。

こんな風に思っているから、出来るだけ作る(調理する)ようにする。

それは父も同じ考えで、出来るだけ作る(育てる)ようにする。

だから、父が山や畑で作った(育てた)野菜を私が作る(調理する)というのが、毎日の生活の中心になっている。

作って食べる=生きていくこと⇒スローライフ

食べるために生活して、また、明日生活するために食べている。

スローライフは、毎日が繰り返し

毎日が「作って食べる」この繰り返しになっている感じ。

今は、茄子と胡瓜、ピーマン、トマトが毎日採れている。

たまに、キャベツ、とうもろこし、すいかがあって、最近はサツマイモも採れだした。

それにストックしている、玉ねぎと人参、ジャガイモ。

ご近所さんや父の友人からはカボチャをはじめ、家で作っていないものが届くから野菜は殆ど買わない。(そういえば、卵まで頂くので卵も2年程買っていないな。)

これを手を替え品を替えで、あの手この手でなんちゃって料理、たまに実験室になる台所がスローライフの原点で実現場所かな。

季節が進むともちろん野菜の種類が変わるけど、その時には端境期があって野菜が採れない時期もあるから、これに備えながら毎日の暮らしが安定するように、工夫して生活する。

パーティーみたいな特別な楽しさは無いけど、毎日繰り返しにしか見えない生活がとっても楽しい。

だから、イイ年の父とイイ年の娘である私の食事はいつも会話がある。

食に関しての話題は多いけど、何かしらずっと会話があるから、きっと他から見ると賑やかな食卓なんだろうなって思うことがある。

「イイもの」食べたい、食べさせたいってお互いに思っているものが言葉には出さないけど共通の想いとしてちゃんとあるからだろうなって思う。

スローライフの日々の楽しさって何なんだろう?

さっき、繰り返しにしか見えない生活がとっても楽しいって書いたけど、楽しさって何だろうって、この「楽しい」とか美味しいとかいう感覚的な、形容詞ってとっても曖昧だから気になると気になるんですよ、私。だから、調べてみると・・・。

「楽しさ」を広辞苑で調べると➀満足で愉快な気分である。➁豊かである。富んでいる。って載っている。

これを見ると確かに、私は満足しているし愉快な気分だなって思う。だって、逆に不満はないし何かが足らなくて不愉快に思うこともないし、探して考えても見つからない。

だからきっと毎日楽しいんだろうなって自分で納得。

といっても、私もそれなのに年齢を重ねて、それなりに色んな経験して、それなりに苦労なんていうものをしたからこんな風に考えることも、思うことも出来るようになったんでしょうけどね。

ちょっと脱線しましたが、これで落ち着いてまた書けるのでこの脱線もまた良しという事で^^。

スローライフで「また明日」が生まれる

私は、台所に来るまでの野菜にかかっている手間と暇はよく知らないけれど、父の野菜は美味いうまい

どう美味いかって?さっきの「楽しい」と一緒だから、これもとってもムツカシイ。辞書で調べてもいいけども、こっちはやめときますね。

あえて言うなら、野菜そのものの甘味があって、甘いものはより甘い。そしてどの野菜も全般的に変な筋、繊維が出てないから柔らかくって口当たりがイイ。でアクとか、臭いはいい感じの風味で残っているけど野菜嫌いになるような臭さ(例えば、ピーマン臭さ、人参臭さ)を感じない。

何故って?よくは知らないけど、肥料も自作しているらしく米ぬかとか、竹を粉砕した竹の粉とかで育てているみたいで、これは興味ある方も多いと思うので、情報が入りましたら後々書いていきますね。

こうやって育てられた野菜は私が夕飯を作っていると、父の「ただいま」として台所に届く。

ここからが、私の仕事。

私が預かった野菜をどう美味しく仕上げるかっていう事にギュッと意識を集中。

よく考えると、台所に立った時だけじゃないな。本を読んでいても、朝ウォーキングしていても、ボーっとしていても割と「食べる」事を考えている気がする。

だから、台所の集中は作業に徹する料理人的な集中!(って、自分で思いこんでます。)

どうやったらもっとおいしく食べられるかな?って。

「食べるために生活して、また、明日生活するために食べている。」 から、これが生活の中心で、食べて「美味しい」があるから「また明日」っていう活力が湧いてくるような気がする。

でも、「あー美味しかった。また明日頑張るぞ!」みたいな、ドラマのセリフのようには出てこない。自然に当たり前に、意識して感じることなく無意識に感じることなんだろうと思う。

どう感じるかって意識したり、自分に問いかけて確認することも大事ではあるけど、あえて感じなくても当たり前に「また明日」がある暮らし。

自分と、自分の家族や大事な人の「また明日」をつくりたいから「美味しい」ものを作りたい。

美味しいものを作りたいと思うから、そのために手間と暇をかける。

決して、高価なものや手に入らない希少なものではなくって、

シンプルに考えて、おもいのままにシンプルに行動すると「イイもの」が出来るんじゃないかな。

だからって、すべて真面目に手間と暇をかけて自給自足なんて出来ないから、私にあったやり方で、勝手気ままなスローライフ

スローライフを書いてはみたけど・・・。

思いついて書いてはみたけど、どうやらこれはシリーズ化しそう。

書いているとあれもこれもといっぱい浮かんで、私自身も考えていることが行ったり来たりして、どうも一節では書ききれないし、まとめられない。

でも、私はやっぱり大事って思うんですよね、食べることって

「また明日も食べたいな」、「また明日も頑張ろう」、「また明日もいいことあるかな」って未来の自分に繋がるから。

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